『イリスの英雄〜(かなえ)の杯〜』



 人々の曰く“イリスの盾”。
 曰く“語らずの双翼”。
 曰く“視えぬものなき者”
 あの日、イリスの街に三人の新たな英雄が生まれた。ジェスタ信者の若者と、浪人風のエルファ、魔化屋を営む老人、なんの共通点もない、崇めている月も違えば職業も年齢も違う。一見してなんでもないこの街の住人三人はそれぞれが鍛え抜かれた精神と肉体、あるいは悪魔をも幻惑する剣技、あるいは真実を見通すたった一つの眼を持っていた。そしてこの土地に訪れた災厄を排し、幾重にももたれかかる絶望を跳ね除け、奇跡と呼ぶに相応しい奇跡を起こしてみせたのだ。あの歓喜の渦の中に自分もいた。
 ユトル老はここにいる誰もが英雄だと言ったが、やはりあの三人は別格であったとドレックは思う。英雄の力は個人のそれのみによるものではない、他の多くの人間を動かせるところにあるのではないだろうか。一人の意思が漣のように世界へ感化し、千人の力にも変わる。
 実際、ドレックは英雄の一人、彼が最も恩義を感じているカイ・サイトニンにより大きく生き方を変えられることとなった。
 全てが終わった後、ドレックはカイに告白した。シャザック・ベルザリオンとその一派をこの街に招き入れたのは他ならぬ自分であると。災いの種に水をやったのは自分である、と。あまつさえ、そのためにカイを利用しようとすらした。しかしそれを聴いた彼は事もなげに言ったのだ。
『でも、そのおかげでこうして出会えたわけだし、ウィルの命も助けられたんだ。俺にも人を救うことができる、それを教えてくれたのはお前だぞ?謝ることはない』
 底抜けのお人よし。
『胸張って生きてけばいい。少なくとも、俺はお前に感謝してる』
 感謝している…こんな自分に?
 彼のその、一切捩れのない真っ直ぐな生き方に感銘を受けた。愚直とさえ言っていいだろう。だからドレックは言葉通り、胸を張って生きていくことにした。他人を騙したり騙されたり、利用したりされたり、そんなことはもうしない。彼のように陽のあたる場所で仕事をしたかったから、長年の…埋もれかけていた夢を再び掘り起こす決心をした。なんのことはない、酒と料理の店を出し、客に上手い物を食わせて上手い酒を飲ませようという、彼らが成し遂げた奇跡からすればちっぽけなものだ。
 しかし、このリアド大陸で酒場や料理店を経営しているのは九割方がリャノの信者である。タマット信者のドレックが店を出すにはなかなか認可が下りず、ここまでこぎつけるのには並々ならぬ苦労をした。資金の工面も難しく、悪魔と化した魔女が街を破壊した後、クラップ・ブラックウィングという何でも屋のミュルーンが建築ブームを見越して金貸しを始めたため、ドレックもそこから少し借り入れて、何より神官になったカイがジェスタの大工仲間に口を利いてくれたお蔭でなんとか店を建てることができた。
「おまけにこんなでっかい開店祝いだ。いつになったら礼を返しきれるやら…」
 ひとりごち、包丁を持った手を止めて振り返ると、背中越しには壁を隠すほどの巨大な棚が設置されている。屈強なジェスタの男たちが十人がかりで運び込んだものだ。カイ手作りの食器と酒瓶を全部入れても四半分も埋まらない。
 約束の時刻を間近に、ドレックが皿をテーブルに並び終えたところで、
『―――ドレック殿、準備は出来たかな?』
 彼の心に語りかけてくる者がいる。全体、魔術師(ウィザード)というのはこういうことを普通だと思っているから困る。
『万端でさぁ』
 ドレックが片目を瞑って心の声で答えれば、一瞬目の前が霞んだかと思うと一人の老人が薄暗い店内に立っていた。いつも腰を曲げて突いていた杖はなく、人を寄せ付けないやくざ者の雰囲気を漂わせていた黒の眼帯も今はしていない。が、炯々とした双眸には以前のままに知恵の光が宿っている。そして気のせいか、その姿は以前よりも遥かに若々しく、精気に満ちているように感じられた。まるで伝説の魔法戦士ユーヴァリフのように。
「すまんな、折角繁盛している店を貸し切りとは」
 しっかりしとした足取りで喋りながらこちらへ向かって歩いてくる。「どうぞ」と、店主が気取って椅子を引くと、ユトル・バイカンは精悍とも思える笑みを湛えてどっかりと腰を下ろした。老いた枯れ木のような身体は細身のドレックとさほど体格に変わりないはずなのだが、不思議なものだ。バルナー商会の人身売買の件を片付けてからこっち、この変わりよう。
「例の山賊連中が呑みにくるんでさ。毎晩どんちゃん騒ぎで、ありがたいやら迷惑やら」
 店主は言って、苦笑する。
「イブンサフもくるのかな?」
「エルファの兄さんですかい?…随分前にきたときにはふん縛られてあの大女の膝に抱かれてましたがね。あの、悪魔の大将も切り伏せた鬼のような強さの兄さんが、まるで赤子みたいな扱いでさぁ。あの人ばっかりは読めませんねぇ」
 ユトルはくっくっ、と噛み殺すように笑い、
「まぁ、そのうち自分で何とかするじゃろうが…この分では、まだミリステアさんには会えておらんのでしょうな」
 そう言えば近頃、“語らずの双翼”イブンサフ・レーベンクイールの姿を見ていない。元々目的があってやってきたのだ。もう物騒な兄貴分と自分の森に帰ったのではないだろうか。もっとも、別の目的ができてしまったのだとしたら、遠からず舞い戻ることになるのだろうが。女の方は見れば分かる。男の方も本気だとすれば…いやさ、そうだとしたら英雄が一人この世から散ることになるかもしれない。“あのこと”については“イリスの曲者”と呼ばれるやり手商人の仲介によって既に話がついてしまっているのだから。
 第一いくら偉大な業を為したとは言え、余所者の、しかもエルファが街の領主になるようなことがあってはならない。しかし、だ。もしも親友である二人が彼の肩を持つとしたら、そうなれば図らずもイリスの勢力を真っ二つに分ける構図になるだろう……。あのことをこの賢者に話すべきだろうか、とドレックは暫し思案したが、結局言葉にするのは止めた。このまま事が進んだ方が、一市民にとっては有益なのである。エルファにも特に義理はない。
「しかしやれやれ、シュナを撒くのに苦労しましてな」
 それを聞いて、ドレックは頭に手を添えて軽く下げた。
「シュナさんと言えば、うちの息子がお世話になっているようで」
「あぁ、いやいやこちらこそ」
 シュナというのはユトルの愛弟子で、よく通る澄んだ声が印象的な色白の娘だ。世事に疎そうなこの老人が気付いているのかいないのか、この街では領主の娘と並んで評判の器量良しである。その美少女といつの間にか親しくなっているのだから、息子もなかなかやるものだ、とドレックなどは感心している。まったく、自分に似なくて良かったというものだ。ただまぁ、彼女にぞっこんらしいジベリン家のお坊ちゃんの恨みを買わなければいいのだが。
「キリュウが…いや、ドレック殿は知らんかな。知り合いのシャストア神官が旅先から気まぐれに便りを寄越すのじゃが、どうもそれに触発されて最近は旅に出たいなどと抜かしおるのですよ」
 レクサール・アダフという素浪人が何度かドレックの元へ情報を求めてやってきたことがある。ユトルの言っているのは恐らくそれに憑依していた女のことだ。魔法の素人であるドレックに仔細は分からないが、『紫眼』と呼ばれるザノン宮廷の秘蔵っ子である。
「で、今日のお客様は四人と聴いていやしたが、お連れ様は?」
「うむ…そうじゃな、直ぐ店の前まで来ておるよ」
 この魔術師“視えぬものなきユトル”には、元は魔化された義眼だった第三の眼がある。それで連れを視ているのだろう。戸口も見ずにカウントを始めた。
「後、五歩。四、三、二、一……」
 立て付けの良い木戸がほとんど音も立てずに開く。
「いやー遠いね。まったくくたびれちゃったよ」
 腰を叩きながら、本当にくたびれた風体の中年が扉を開いて入ってきた。がしがしと虱の集っていそうなぼさぼさの頭を掻いている。
「遅かったな軍師殿」
「はぁ…いつまでそう呼ぶんだか」
「…旦那、この方ぁ……」
 ドレックは内心の動揺を抑えて平静を装いつつ、流し目でちらりとユトルに視線を送った。裏家業から足を洗ったばかりの彼が気色ばむのも無理はない。この男の名はエルバルト・ダイム、法と秩序を司る神ガヤンの高司祭だからである。今まで決して視界に入らないように注意して行動していたというのに。
「あー、あんた。あれだね。えーっと…なんだっけ?情報屋の」
 ドレックは頭を急回転させて算段する。賄賂?金に興味はない。女?それも興味がない。この男を丸め込むとしたら何がいいか…が、意外にも高司祭はのんびりとした口調で告げる。
「あーいいよ。別にあんたを逮捕したりしないよ。だって」
 そのまま開いた口に手をあてて、「面倒くさいし」と大欠伸をしながら言う。挙句、小指を突っ込んで鼻までほじり始めた。
「へ、へぇ…」
 ドレックはそれですっかり毒気を抜かれてしまった。お堅いガヤンの高司祭が演技でここまでできるならシャストア信者も形無しだ。が、本気ならそれはそれで器がでかい。流石は将軍の懐刀とあだ名されただけはある。
「君がやる気になってくれてとても嬉しいですよ」
 続いて入ってきた小柄で初老の男、通称“アル爺さん”は穏やかな笑みを浮かべる。普段は日向に座って鳩に餌をやっているような柔らかな物腰だが、実のところ先の二人も足元に及ばない大物である。今でも剣を抜いて互角に立ち合える者はこの国に、いや大陸にも数えるほどしかいないだろう。月の色を問わず、この街に憩う者、或いは巣食う者全てにとって等しく畏敬の対象である。
 もうザノン国王がやってこようと、多足の者が群れを成してやってこようと驚けなくなってしまった。心なしか、目尻を下げてアルがにやりとする。
「クラーク君が目を白黒させながら王都に帰っていきましたよ」
 クラークと言えば、クラウジビッツ・クラーク。ミスターソードブレイカーの異名をとるあの腕利きのガヤン神官である。仕事柄、ドレックも散々な目に遭わされている。が、カイを介して一戦交えたあの事件、実に痛快だった。
「釣りが多くてね〜。払いきれないんだよね」
 小声で何やら呟きながら、一層激しくぼりぼりと頭を掻いている。ひょっとすると照れているのかもしれない。魔術師がエルバルトを雇うために支払った代価の杖は、ドレックからすればとんでもない代物だ。そこらの闇市で手に入るようなものではない。「旦那ぁ、家一軒建てても釣りがきますぜ」と言ったら、ユトルは「まぁ、街一つ建てた男には安いくらいじゃろう」ときた。魔法の眼にしても、魔力以前に象牙にトパーズを象嵌したものだというから、ドレックにしてみれば宝石が宙に浮いているようなものだ。そのくせ酒代を払うのは渋々なのだから、赤の月を宗旨する彼にしても分からない。
 並んだ三人を見て、
「こ、これはまたお歴々で…一体今日は何事ですかい」
 ドレックが満足そうにしているユトルにそっと耳打ちする。
「政治でしたら城かどこかでやって欲しいんですがね……」
「何、たまには若い連中抜きで酒を呑もうと思っただけじゃて」
 引き篭もりの魔化屋はこの数ヶ月のうちに情報屋も玄人裸足の顔の広さになっているようだ。
「はぁ…そうですかい。まぁ、それならちょうど極上の酒があるんでさ。人に頼まれてましてね、旦那がきたら渡そうと思ってやした…」
 ドレックはやや困惑気味にそう言うと、カウンター後ろの棚から特大の瓶を抱えてテーブルまでやってきた。
「赤蛇か?」
「旦那にゃ敵いませんね」
 口やかましいがその分、頭の回る爺さんだ。
「現金なもんですぜ、ザノンの騎士が片されちまった途端にこうですからねぇ」
 裏タマットの若き長、赤蛇ジェイはあの事件の直後、行方を眩ましてしまった。敗者であるシャザック・ベルザリオンに組みしていたからである。彼だけではない。あの騎士付きの少女も戦死したようだし、頭を失った諜報部の騎士たちはことごとく戦死したか自決したと聞く。赤蛇も未だイリスの何処かで再起を狙っているのか、それともガヤンに人知れず始末されたのか、あるいは異郷に放逐されたのか…今のドレックには知る術もない。だが恐らく、店のカウンターの上にいつのまにか忘れられたように立て掛けられていたこの酒は、あの男の置き土産なのだろう。ドレックはそう判断した。蛇革に包まれた真っ赤なワイン瓶だったからである。「俺はまだ健在だ」と、暗に示したかったのかもしれない。
 何処かお人よしのこの老人はこんなことを言うのだが。
「いや、あ奴は人に媚びるような男ではあるまい。酒を奢られたから奢り返した。それだけじゃよ」
「そんなもんですかねぇ……」
「どんなお酒でも美味しく呑むことは出来るものですよ」
 とは、アル。どちらかと言うと年の功はこちらにあるようだ。
「まずは一杯」
「これはすみません」
「どーも」
「うむ」
 テーブルの前に立った店主が慇懃に礼をして、まずアルから順に杯へ酒を注いでいくと、なんとも言えない芳しい香気が立ち昇る。赤蛇め、これは本当に良い酒だ。リャノ神殿最奥の宝物庫にでも潜り込まなければ手に入るものではない。
 それから少し、店の中に沈黙が蟠っていた。みな、この数ヶ月の間に巻き起こった様々な悲劇や奇跡を、それぞれに思い返しているのだろう。一番口数の少ないと思えたアルが、口を開いた。
「ドレックさんはどうしてこの店を?」
 アルと話したことがないわけではないのだが、面と向かって水を向けられるとどうにも。
「死んだ女房がね、料亭をやるのが夢でして。あの頃はそんな金はなかったんですが…苦労かけて死なせといて、今更な話でさぁ」
「そんなことはありません。きっと奥さんも喜んでいらっしゃいますよ」
「…へへ、まぁ。そうだといんですが」
 この人に言われると不思議とそう信じられる気になってくる。
「もっともあっしの腕は息子が鍛えてくれたようなもんで。生意気に点数なんぞつけやがってですね…これがなかなか厳しいんですわ!」
 四人がどっと笑う。
「今日は本当に楽しい……」
 杯を見て、ぽつりと呟くアル。それなら良かった、一杯屋の店主としての役目が、こんな自分にも務まっているのだから。そしてそれを認めてもらえたのだから。
 そこで何故かユトルは用の済んだはずの瓶を受け取ると、ドレックの前に置いてあった最後の杯になみなみと注ぐ。四人目の客は結局来なかったというのに。
「いえいえあっしは」
 酒には余りいい思い出がない。が、言いかけて気付く。自分は持て成す方だ。ここに座っていいのは英雄だけなのだから。
「貴方の杯ではないんじゃよ…が、そうじゃな。飲んでやってくれ」
 アルとエルバルトも黙って頷いたような気がした。ドレックは三人の気持ちを汲むと、素直に杯を持ってきてユトルの酒を受けた。
 誰も口にはしないが、皮肉なものだ。共にイリス三強に数えられた“凶獣ジュダ”と刺し違えた彼の高名なジェスタの戦士“鋼壁のガッシュ”とは、領主アレイオス・イリスの双腕と呼ばれていた男たちである。
「音頭は何方にとってもらいやすかね?」
 訊くまでもないとは思ったが、アルに言う。ここでは一介の好々爺なのか、剣気の微かもなく彼はエルバルトの方を見た。余程最近のガヤン神殿長の働き振りが嬉しいのだろう。
「えー…やるの?こういうの苦手なんだけど私」
 アルが静かに杯を掲げた。
「けれど嫌いではないはずですよ、エルバルト」
「しょうがないなぁ〜」
 渋々とエルバルトも杯を掲げる。
「でも最初はあんたが頼むよ」
 ユトルは少し笑って二人の杯に隣り合うように自分の杯を掲げ、「あなたに頼むよ」と言わんばかりにこちらに目配せしてきた。
「全くしようがありませんねぇ…それでは僭越ながら」
 彼は掲げられた三つの杯に、この街の鼎を見た気がした。
 そして厳粛に告げる。
「イリスの英雄に」
「偉大なる先達に」
「未来ある若人に」
「戦場で別れた友に」
 ドレック、ユトル、アル、エルバルトの杯が。次々と宙に舞い、一つ一つが触れ合ってとても心地良い音を立てる。
『そして、イリスの平和に―――――乾杯!!!』





―『花嫁の遁走曲(ミリステア・フーガ)』に続く―






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